東京(とうきょう)・六本木(ろっぽんぎ)の繁華街(はんかがい)を抜(ぬ)けた歩道脇(ほどうわき)に小(ちい)さな地蔵(じぞう)がある。腹(はら)を出(だ)し、へそをなでるような姿(すがた)で佇(たたず)(たたず)んでいる。終戦後(しゅうせんご)、旧満州(きゅうまんしゅう)で亡(な)くなった子(こ)どもたちをしのぶ「ともちゃん地蔵(じぞう)」という。
ともちゃんは、3歳(さい)になったばかりの男(おとこ)の子(こ)だった。いつもだぶだぶの服(ふく)をたくし上(あ)げ、へそを見(み)つめていた。さびしい時(とき)、へそを見(み)ればお母さんの顔(かお)が見(み)える。死(し)に別(わか)れた母親(ははおや)に、そう教(おそ)わったからだ。〈(。「)おなかにいる時(とき)、おへそからおっぱいを吸(す)っていたのよ〉。(>。)
孤児(こじ)たちは次々(つぎつぎ)と栄養失調(えいようしっちょう)に倒(たお)れていった。亡(な)くなった子(こ)らはみな、へそを見(み)るように体(からだ)をくの字(じ)に曲(ま)げていたという。生(い)き延(の)びた故増田昭一氏(ゆえますだしょういちし)が著書(ちょしょ)に記(しる)した。
国策(こくさく)で送(おく)られた満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)の多(おお)くは、農村出身(のうそんしゅっしん)の家族連(かぞくづ)れだった。敗色濃(はいしょくこ)い1945年(ねん)8月(がつ)、ソ(そ)連軍(れんぐん)が攻め込(こ)む。我(わ)が物顔(ものがお)で満州国(まんしゅうこく)を建(た)て、威(い)を振(ふ)るってきた関東軍(かんとうぐん)はなす術(すべ)(すべ)がなかった。民間人(みんかんじん)は置(お)き去(さ)りにされた。
長野県(ながのけん)の満蒙開拓平和記念館(まんもうかいたくへいわきねんかん)で先月(せんげつ)、当時(とうじ)の体験(たいけん)を聞(き)く機会(きかい)があった。11歳(さい)だった仲田武司(なかだたけし)さん(92)は同級生(どうきゅうせい)3人(にん)を集団自決(しゅうだんじけつ)で亡(な)くした。自(みずか)らの家族(かぞく)も入水(にゅうすい)する寸前(すんぜん)まで追(お)い詰(つ)められた。「いつも弱(よわ)い子(こ)どもが犠牲(ぎせい)になる」と、まっすぐ前(まえ)を見(み)て語(かた)った。
開拓団(かいたくだん)27万人(まんにん)のうち8万人(まんにん)が亡(な)くなったとされる。どれほどの子(こ)どもがいたか、今(いま)も分(わ)からない。ともちゃん地蔵(じぞう)の横(よこ)の碑(ひ)には、こう刻(きざ)まれている。〈(。「)そんな子(こ)どもたちがいたことを忘(わす)れないで〉。(>。)小(ちい)さな地蔵(じぞう)の素朴(そぼく)な顔立(かおだ)ちに一人(ひとり)ひとりの姿(すがた)を重(かさ)ねた。
。>。小ちいさな地蔵じぞうの素朴そぼくな顔立かおだちに一人ひとりひとりの姿すがたを重かさねた 작은 지장보살의 소박한 얼굴..우리 아이들의 얼굴이죠..^^